「教育」という概念に関するノート〜その2〜山形大学工学部助教授
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前回のノートにおいては教育という言葉の使用法のうち(1)社会学的な使用法について議論した。(2)教育機関的な使用法は、例えば「最終学歴は何ですか?」などのような無機質な使用法が考えられる。いわば、意味的には事実的事柄や共通の認識が持てるものであり、それは教育課程やプログラムの内容や教育的信念のごときを言及するものではない。今回は、とりわけ、(3)一般的教化啓蒙としての使用法に関して議論する。 R.S.Petersによる分析と、Simin Fraster Universityの教育哲学者C.Hammの見解をまとめる。 教育とはachievement(学習、習得、成就)の専門用語でありそしてそれは教師が学習者にinitiate(教えていく、手ほどき)するdeliberateness(熟考)の試みである[註1]。 Initiateの基準はvalue(価値)、knowledge(知識)、そしてprocedural requirement(手順的必要条件)である[註2]。教育とは、"value or desirability"であり、即ちそれは知識という基準に限定される。その基準は、知識のbreadth(広さ)とdepth(深さ)である。 また手順的必要条件には手順的基準が伴う。 Petersの分析では、教育ということが、即ち知識を獲得することであるという結論に達することから、しばしばElitismであるとか、知性中心主義であると避難されることがある。しかし、教育学者C.Hammは知識以外の例えば情緒のコントロール等も知識に包含されるとPetersを弁護している。同時に教育に対するこれらの基準(価値、知識、手順)を考え合わせて教育を次のように定義している。「教育とは認識的展望を持った広さと深さの或る知識と理解によって、そしてまた、適切な情緒と態度によって特色づけられた望ましい精神状態の習得である」[註3]。 哲学者Kantの言葉をまつまでもなく、動物的なヒトが人になっていく学習ないしは発達の過程を教育と定義される。Hammは人間らしいとはどういうことか、すなわち理想的な人間の像とはどういったものかを、知識の広さと深さそして衛生的な精神状態であると考えている。したがって、心身共に健康になっていく過程を指していると解釈できる。 広く深い知識と衛生的な精神状態とは、古代ギリシャの思想に照らし合わせれば、自由人としての必要条件であるかもしれない。即ち、その意味において広く深い知識とは、liberal arts(教養)を意味する。そのような教養を持つか否かは、現代の民主主義社会での市民の権利の公使に照らし合わせれば、社会的民主主義と政治的民主主義とに大別できる。教養がなければ、原子力施設誘致の是非を問う住民投票でも、環境問題でも国会議員の選挙の投票でも、「真」にその賛否や選任を判断できない。従って、この場合は有権者としての存在を弁護するためだけの民主主義でしかない。一方、教養を持つ市民であれば、確実な判断は難しいかもしれないが、より「真」に判断できうると考えられる。 註: [註1]R. S. Peters,Ethics and Education,1966年 [註2]R. S. Peters,Ibid. [註3]C. Hamm,Philosophical Issues in Education,p.39,1989年 |