「教育」という概念に関するノート〜その1〜山形大学工学部助教授
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しばしばElitismないしはIntellectualismとしての立場に傾倒しているとして批判されている教育哲学者R.S.Petersの教育の概念の分析では、予備的考察として「学習の習得ないしは成就」、「熟考した試み」、「initiationの方法」をして議論し、価値や知識、手順に関する議論を通して教育の概念を明確にしている[註1]。私は、現代教育に照らし合わせる意味を含め、教育という概念を用語の使用法からその考察を試みる。 教育という言葉には少なくとも次の3つの使用法が考えられる[註2]。(1)社会学的な使用法、(2)教育機関的な使用法、(3)一般的教化啓蒙としての使用法である。 今回はまず(1)の社会学的な使用法をとりあげる。社会学的な使用法においては即ち未成熟者または発達途上にある主体の社会化や文化化を意味している。家庭教育・学校教育・社会教育等あらゆる教育の中で、子ども自身を社会に適応させること即ち子どもを社会化ないしは文化化することである。 その中でも、Progressivism、Experimentalism的な教育即ちPragmaticな教育、Utilitarian-curriculum、practicalな教育がある意味においてこの立場を強調することが多い。そして、その教育は、(a)社会に適応すること、(b)Materialism(物質中心主義)、(c) non-doctorine(無原則)、(d) ad-hoc(アドボックすなわち職業教育)主義、(e) social reform(社会改革)の教育curriculumを強調する。これはアメリカの特徴的哲学である。しかし、この概念を教育の中心においた場合、問題解決の場面においてはその程度が曖昧になるばかりではなく、(a)の社会適応に関しては良き社会、悪しき社会にかかわらず適応することを意味する。PerennialismのR.M.Hutchinsが批判している「凡庸性(mediocrity)を永続させがちな」社会構造とはこの結果生まれうる[註3]。また、多少飛躍すれば(b)では、A.Smithの「laissez-faire」自由放任市場主義では、interest-centeredな文化が形成される。さらに、教育もその文化内において発展するため、学校教育においては経営中心の教育主義、または主体中心の教育主義(児童中心curriculum)が強調されるようになる。しかし、それは家庭教育だけではなく学校教育が(c)のnon-doctrineになってしまう等という危険を孕み、現に現代アメリカではしかる文化形成に批判的な意見も多い。とりわけ、私が提唱する用語で「知識支配階級[註4]」と呼んでいる知識格差と知的貧富の差[註5]により生じる一部のエリート層では「凡庸性を永続させがちな」文化を嫌っており、真の教育や学問はエリート層にだけ与えられる特権であるという意識さえ持っている場合もある。 註: [註1]R. S. Peters,Ethics and Education,1966年 [註2]鶴田義男,教育哲学,古川印刷,1995年 [註3]R. M. Hutchins,The Learning Society,p.130,1968年 [註4]古代ギリシャでは、95%の被支配階級と5%(2万人)の支配階級から構成され、そのアナロジーとして表現したものである。 [註5]現代日本において経済格差が叫ばれているが、その知識バージョンと考えてよい。アメリカでは真の知識や学問はごく一部の階級で嗜まれつつあると言っても過言でない。 |